「みゃあらくもんの20年」

黒部の仙人・高橋重夫

 山小屋の経営を手がけて20年が過ぎた。アッと言う間の20年だった。過ぎた一年一年を振り返れば、長いような気がしないでもないが、 69年生きた年数と比較すれば、やはりアッと言う間の出来事なのかも知れない。

 仙人温泉小屋の売買の話がまとまったのは2000年の9月だった。【君ならできるよ】と言われてその気になった。 山仲間からは【大変だよ、身体がキツイよ無理だよ、高橋さん】と忠告されたが、俺はできる、と思った。

 50歳だったので体力にはまだ、自信があった。配管工事業を35年していたからだろう、建物の維持管理にもまた自信があった。 若い頃から山と渓流を歩いた。年間、60日は歩いていた。 2時間登山道を歩いて渓流に入り釣りをすると、岩魚が次から次に釣れたものだ。 そして源流でキャンプをして、焚き火で岩魚を焼いていると、 世の中の現実をすべて忘れることができる。 嫌なこと、辛いこと、全部忘れることができた。

 その頃からだ。50歳になったら、渓流に近い山小屋で暮らしたい、と思うようになったのだ。 子育てが終わった47歳に、売りに出ている山小屋を探し始めた。 そんな時、渓流に近くて、温泉付きの仙人温泉小屋が売りに出ている、と山仲間が教えてくれた。 埼玉県に住んでいる身には、富山県黒部市の仙人温泉小屋はなかなかに遠いと感じたが、温泉付きの条件はなんとしても捨て難い。 目をつぶって決心をした。先行きの不安に膝が震えたが【俺は男の子だ、なんとかするぜ】と下半身に力を入れ直して決断をしたのだった。

 2000年の10月。50歳の秋に山小屋の小屋閉めを手伝う。 ボランティアのスタッフ4人で3日間で終了。 最終日は冷たい雨の降る一日だった。小屋閉めの作業で一番手のかかる仕事は温泉のバイブの撤去だった。

 2001年は7月に小屋開けを手伝い、そのまま一ヶ月間営業のノウハウを前任者から学んだ。 小屋の修理や温泉引きは本業に近い作業なので難しくはない。苦労したのは料理だ。 米を炊く水加減が厄介だ。標高1500mの山小屋は平地とは沸点が違う。 圧力釜を使わなくても水さえ加減すれば炊けないことはないが、米に対して水の量を決めるのは容易ではなかった。 冷蔵庫がなかったのも問題だった。梅雨の明ける7月下旬からが営業開始の時期だ。暑い盛りは野菜の傷みが早い。 キャベツは一ヶ月はもたない。なければ朝食の副食品が足りない。不足する前に補充する。身体の空いている仲間に荷揚げをお願いする。 それが一番苦慮する問題だった。

 人里を遠く離れた山奥の小屋なので、人の姿が消えると猿、貂、鼠たちの棲み家になる。 食料品は蓋付きの頑丈な容器に格納しなければ食い荒らされてしまう。 特に、熊が小屋に入ると内部は滅茶苦茶になる。 熊は米、缶詰、乾麺、味噌、およそ人間の食べる物はすべて口にする。日本酒、ビールは熊の大好物だ。 百本でも二百本でもあれば全部飲む。飲んで酔いつぶれると、熊は小屋で冬眠をするのだ。

 秋の深まる10月中旬に営業を終了して小屋閉めを開始する。なるべく速く、手際よく作業を進める。 ぐずぐずしていると、雪が降って来る。 雪の中の作業は辛い。身体が濡れると寝る時になかなか温まれない。ストーブを点けたまま眠ったこともあった。

 2002年は6月20日が小屋開けだった。その年も熊が小屋で冬眠をしていた。 壁の弱い部分を食い破って侵入して、食料品をすべて食い尽くしていた。 子熊連れの雌熊だった。室内には子熊と成獣の足跡がたくさんあった。

 6月20日は夏至の日だ。日照時間が長いので小屋開けの作業がはかどる。 メンバーは山岳ガイドの今井さん、山仲間のKさん、従業員の0君とで4人。初日に水を引いて作業終了。 2日目に温泉を引いたのだが、日が暮れる寸前の19時30分になっても温泉は開通しなかった。風呂に入れたのは、3日目の昼過ぎだった。 ボランティアのメンバーは皆、小屋開けの経験はない。手探りの状態だったが皆文句も言わず良く働いてくれた。 その日はゆっくり温泉を楽しんで、作業は終了した。19年前になるが、4人で入った温泉の感激は、今でも心に焼き付いている。

 小屋開けの頃、谷の雪渓は10Μの厚みがある。雪渓の解け出した地面には6月なのに蕗の薹が芽を出している。 里山とは大分季節感が違う。蕨、ゼンマイ、コシアブラ、根曲がり竹が一斉に芽を出す。山菜を肴に飲む酒は美味い。 飲みながらヘリで荷揚げするリストを作成する。次に上山するのは7月上旬だ。

 所沢の自宅に戻り、少し本業に勤しんで、また山小屋に向かった。今回は山仲間と二人だ。 ヘリの集積場で荷造りをして、荷物と一緒にヘリで山小屋に到着した。ヘリに乗ったのは2回目だ。 前回の小屋開けで室内の整理と温泉引きが終わっている。残りの作業は六畳の仮設小屋の建設、登山道の草刈りが主な作業だ。 草刈りは仲間に任せて、私は仮設小屋の作業に専念した。どちらも10日間は必要だ。営業を開始する梅雨明けまでに終了しなければならない。 幸いに日が長いので、さして慌てるほどではないがのんびりはしていられない。

 その年は7月18日に初めての登山者が宿泊した。 登山道が雲切新道ではなく仙人谷の左岸を阿曽原小屋に抜ける、比較的アッブダウンの少ない道だったので、登山者の往来は早かった。

 営業日からは一人だった。仲間は山小屋暮らしの不便さに耐えられずに、2週間で下山してしまった。 布団干し、便所掃除、露天風呂の調整、登山道の管理、一人では手が廻らない。一ヶ月で体重が10キロ減った。 もう体力の限界を感じた時に、トロッコ列車が落石のために不通になった。9月6日だった。

 帰路の列車が無い、となれば登山者の往来は絶える。ここを潮時と思い下山した。自宅に戻り、病院で胃痛の診察を受けた。 結果は立派な胃潰瘍だった。小屋にいる時に、立っていられない程の激痛があった。 列車が不通にならなければ、小屋で倒れていたかも知れない。

 2002年は最悪の年だった。本業の取引先の建設会社が2軒倒産したのだった。 手形決済だったので、銀行で割引いた手形を買い戻した負債が1000万円をこえた。 山小屋の売り上げは全て支払いに回してもまだ、たりなかった。

 胃潰瘍が治るまで、一ヶ月かかった。親友から500万円借金をして何とか生活を維持した。 山小屋の売買代金と本業の借金は2000万円だった。直ぐには払えない。頭を何べんも下げて分割払いにして貰った。 毎月、20万円の返済は正直辛かった。3年は女房の顔から笑顔が消えた。 山小屋の経営を投げ出さずに済んだのは女房の頑張りがあったからだ。20年過ぎた今でも、女房には心底感謝している。

 山小屋の営業を助けてくれるボランティアのスタッフも増えた。今では、主が居なくても小屋開けをして貰えるし、小屋閉めも完璧だ。もう70歳になろうとしている自分では、スタッフの助けがなければ小屋の運営はできない。スタッフの皆さんにも、心底感謝の気持ちで一杯です。 来年のことを言えば鬼が笑うけれど、また下半身に力を入れ直して、頑張りたいと思っている。


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