「トラネコ危機一髪」

田中 正祐紀

 どうでもいいことだが、女房は「ネコちゃん」、小生が「トラちゃん」だ。 2人合わせて「トラネコ」である。
なぜか「ヤン坊マー坊」の歌が思い出される。

 天気予報やヤンマーディーゼルと、このエッセイは関係ないが、「僕の名前はトラちゃん、君の名前はネコちゃん、二人あわせてトラネコだ。 君と僕とでトラネコだ」とついつい口ずさんでしまった。

 連想ついでに、「犬も歩けば棒に当たる」は「トラネコも歩けば災害に当たる」と読める。 たぶん運命のいたずらに違いない。 フラフラと旅をしているトラネコに、とんでもない事態が起きた。

 一回だけなら、人生山あり谷あり、そんな時もあるさ、と看過できるが、一年間に3回も起こると、2人は特別な星の下に生まれたのではないかと考えてしまう。 トラネコに何がおきて、どうしたかを、お聞かせしよう。

 本題に入る前に、トラネコの旅のスタイルが2つあることを知っておいてほしい。

8人乗りのマイカーの後部座席に合板を乗せて、その上にマットレスを敷くと車中泊ができる。 気軽に長旅を楽しめ、登山用具なども積めるので、トラネコがよく使う手足である。この車が二つ星である。

もう一つは、荷物の重量制限が7Kgと厳しいが、時間とコストを節約するにはこれしかないLCCと呼ばれる飛行機である。 身につけている物は重量制限がないので、登山靴は履いて乗るしかない。あまり見かけない光景だが、トラネコは気にしない。 現地の足には飛行場付近でレンタカーを借りる。この手を流れ星と呼ぶ。

 さて、本題に入ろう。

 事の始まりは、広島の原爆ドームを見る旅だった。2018年の7月、二つ星は木曽の道の駅で、一晩中雨に降られていた。 朝の国道19号を水しぶきをあげて名古屋方面に走ると、横を流れる木曽川が濁流だ。西日本は雨の予報だが、なんとかなるだろうと思い、大阪まで走った。 大阪の親戚で一泊して、姫路の親戚に向かう途中、神戸の町で二つ星が動けない。

 西に行く道が全て渋滞か、通行止めになった。全く進まないので諦めてポートアイランドで車中泊をした。この日の夜の雨が西日本豪雨になった。 翌朝のニュースで洪水の発生を知り、トラネコは姫路まで行って引き返した。 倉敷、広島、愛媛、香川の旅がボツになったが、1日早く旅を開始していたら、被災地にいたことになる。

 次は、北海道で起きた。

 東北を通過して、北海道の山を登り、苫小牧から大洗にフェリーで帰る旅に出たのは8月末だった。 乳頭温泉に宿泊して、下北半島の猿ヶ森ヒバ埋設林駐車場で車中泊後、大間からフェリーで函館へ。 函館山、有珠山、十勝岳を登り、最後に支笏湖の風不死岳(ふっぷしだけ)に登ろうと、道の駅サーモンパーク千歳で車中泊をしたのが、9月5日。

 深夜3時過ぎ、二つ星が荒波に揉まれる舟になった。どこかで巨大地震が起きたことを直感した。

 当然、登山は中止。道の駅のローソンは直ぐに閉鎖された。停電は続き、飲食店、コンビニ、スーパー、トイレ、信号も使えない。 震源地が胆振地方と知り、被害が少ないと思える北へ向かった。途中、自衛隊と何度もすれ違った。 岩見沢まで二つ星を走らせたところで、停電が深刻で全道が被災地になっていることを知った。 岩見沢公園で水を確保して、栗山町の公園で車中泊と決めた。登山用のガスストーブで湯を沸かし、買ってあったカップ麺を食べた。

 ヘリ、消防のサイレンの音を聞きながら、真っ暗な町で寝た。5日前の函館山から見た夜景も、今は消えている。

 翌朝も停電、かろうじて開いているスーパーやドラックストア、ガソリンスタンドの前は長い列である。 トラネコもスーパーの前で並び、乾き物を買った。入店禁止でレジが使えないため、店員がワゴンで売り、電卓をたたいていた。

 予約したフェリーに乗るため、苫小牧に向かった。ネットのニュースで飛行機、電車などの交通機関はストップと知っていたが、この日のフェリーは欠航になっていない。 途中、セブンイレブンが開いていた。
パンやお弁当、カップ麺などの棚は全て空だが、おでんや肉まん、フランクフルトを販売していた。 閉めているコンビニが多いのに、ここは開いてて良かった。 やるじゃないセブンイレブン。

 また、苫小牧で停電が解消したばかりのラーメン屋に入ると、店員やトラックの運転手が嬉しさを隠せずにいい顔をしてラーメンをすすっていた。 さらに町を走っていると、トウモロコシを満載した軽トラがあり、こんなことになってしまい、少しでも食べてもらえればと思い車に積んで売っているそうである。 トラネコもお土産に10本ほど買った。

 さて、夕方にフェリー乗り場に行くと、キャンセル待ちの人々で一杯だ。

 予約した者は確実に乗れる。申し訳ない気持ちで乗船した。オーシャンビューの大浴場で汗を流すと複雑な気分であった。

 3番目は、屋久島と言えば、もう察しがついていますね。

 2019年の5月、登山者が帰れなくなって、ニュースになったあの時、トラネコは屋久島にいました。

 鹿児島行きの安売り航空券が手に入り、屋久島の縄文杉登山を決めたのは、半年前だった。 鹿児島と屋久島の往復チケットとレンタカーや民宿を予約して、成田空港から流れ星に登山靴で乗ったのは、5月16日。 翌日はトッピーという高速船で屋久島に渡り、レンタカーで島内の周遊観光をした。 午前中は晴れ間もあり、午後から小雨も降ったが、まずまずの天気だった。 18日の朝は雨、モッチョム岳登山を中止して、代わりの行き先を尾の間の民宿の主人に相談すると、ヤクスギランドを勧められた。

 多少の大雨でも、この森の中はなんとか歩けるという。

 レンタカーでヤクスギランドを目指した。雨足は強まり、山道を上って行くと、やがて道が川になり、小石や小枝が流れて来た。 車は上る力があるが、山腹側が滝、滝、滝の連続である。縄文杉への分岐の手前で、トラとネコは「戻ろう」と同時に言った。 すぐにUターンできる場所を探して、なんとか引き返した。途中、バスやタクシー、乗用車などとすれ違ったが、この車は何日も戻れなかったはずである。 その道路が土砂崩れで通行不能になったのだ。まさに危機一髪だった。

 麓の屋久杉自然館で雨宿りしてから、民宿に向かった。ようやくホットするのも束の間、今度は避難指示だ。 目の前の安房川が夜7時に満潮になり、溢れる危険があるそうだ。確かにギリギリの水位。 トラネコは安全をみて、高台の避難所にレンタカーで向かった。 公民館の玄関の名簿に旅行者と記入して、隅の方に座っていたら、おにぎりなどをもらい、なんだか悪いような気がした。 テレビでは屋久島で50年に一度の大雨、縄文杉への登山者が帰れなくなっているニュースが流れていた。 夜8時頃に避難指示が解除となり、民宿に戻った。

 翌日は、小雨になり、縄文杉登山もできなくなったので、レンタカーで安房から尾之間温泉に行った。 途中の道は、大規模な水溜りと山からの流木があったが、なんとか通行できた。熱い温泉につかり、近くのスーパーで昼食を買って帰った。 最終日はレンタカーを宮之浦に無傷で返した。 宮之浦港はキャンセル待ちの旅行者で溢れていたが、ここでも予約した者が優先的に乗船できる。 少し遅れて到着したトッピーにトラネコは難なく乗れてしまった。申し訳ない気持ちと予定通り帰れる安堵感が交錯していた。 鹿児島では開聞岳に登った。快晴だったので、山頂から屋久島がはっきり見えた。 トラネコは、いつか、縄文杉に行ける日が来ることを願った。

 どうだろう、自然災害から危機一髪で脱出できて良かったと思う反面、旅の目的が達成されていないのである。 トラネコはシツコイ性格である。すぐに、リベンジ計画を練った。いつ死んでも人生に悔いなし、この考え方こそ、生きる原動力である。

 2019年3月、二つ星で原爆ドームに行った。
ついでに、前年、仙人温泉小屋を手伝ってくれた倉敷に住む人に会い、宮島で桜を見て、錦帯橋、秋吉台の洞窟まで足を延ばした。日本海沿いで帰路についた。

 同年4月には、流れ星で四国の旅をした。 四万十川、足摺岬の土佐文旦、鰹節工場、道後温泉、雪の石鎚山と剣山登山、志々島の大欅、讃岐うどん、雨の金毘羅宮奥の院、 イノシシ漁師の宿などが懐かしい思い出になった。

 6月には流れ星で北海道へ。悔いが残っているのは、支笏湖の風不死岳(ふっぷしだけ)である。 到着の翌日は、霧と雨。登山口までレンタカーで行ったが、諦めた。 登別温泉、洞爺湖、神仙沼(地図で見つけた神仙組と同じ漢字の沼)、鰊御殿、神恵内の宿のウニ、神威岬のハマナス、小樽、 札幌岳登山(晴れ)、最終日に再び風不死岳へ。快晴であった。
樽前山にも登った。素晴らしい山行になった。夕方のLCCで成田へ着陸。

 最後に残った屋久島の登山は天候が鍵になると分かっていた。 トラネコは二つ星で九州まで行き、登山や温泉を楽しみながら、3日間の晴れ予報が出れば、鹿児島港から屋久島へ渡るプランを立てた。 時期は、仙人温泉小屋が閉まる10月後半が天気も安定していいのではないか、と考えた。

 九州までは遠いので、大阪湾から阪急フェリーを使い、別府まで二つ星を運んでもらった。 長崎の爆心地公園、隠れキリシタンの教会、雲仙地獄、地震で壊れた熊本城、天草、久住山登山などをしながら屋久島の天気を気にしていた。 噴煙を上げる阿蘇山が夕焼けに染まるとき、鹿児島へ向かった。二つ星を港の駐車場に残して、トッピーに乗り、再び、屋久島へ。

 宮之浦の民宿で早朝タクシーを呼んでもらい、ヤクスギランドの先にある淀川登山口へ向かった。 途中、5月に通行止めになった場所を見ながら、タクシーの運転手から自衛隊まで出動して登山者を救出した話を聞く。 10月22日の登山口はまだ薄暗く、星が見えていた。宮之浦岳までの道のりは長いが、森が深く、稜線も快晴で、快適に歩けた。
高塚小屋まで屋久杉の巨木を沢山見た。翌朝、すぐ下の縄文杉まで行く。トラネコ以外、誰もいない。静かに朝靄に包まれる縄文杉。 やはり、この目と体で対峙して良かったと思った。下山して間もなく雨になる。ウィルソン株で雨は激しさを増す。 やがて、縄文杉登山の人々とすれ違う。トロッコ道から分岐して、白谷雲水峡方面へ。土砂降りでモンベルの雨具が効かない。 靴の中までずぶ濡れになったのは初めての経験だ。登山道脇の谷川が洪水のようになる。 その急流の傍をなんとか通り抜け、登山口のバス停に到着。 ネコはずぶ濡れで、1時間先のバスを待ってから港に行くのはヤダと言い出す。電話でタクシーを呼んだ。 やって来たタクシーを見たとたん、待合所に居た外人さんグループが一緒に載せてくれという。 全員は乗れないので、夫婦の二人だけ後部座席に同乗してもらった。20分ほどで港に着いた。 同乗の外人さんは運賃を払うと言ったが辞退した。トッピーの待ち時間を使って、着替えを済ませた。 それにしても、最後の日にこの大雨、災害にはならなかったが、屋久島の雨はあなどれない。

 こうして、3つのリベンジを済ませたトラネコだが、その後もフラフラと出掛けている。コロナウィルスなるものが世に出回るまで。

 秋の雨飾山登山。11月にオーストラリアのゴールドコーストで野生のコアラとカンガルーや土ボタルを見に行く旅。
12月のサイパンでネコが放し飼いの大型犬に尻を噛まれる旅。ここまでは順調にことが運んだ。

 しかし、その先の2020年3月のベトナム、5月の韓国済州島登山、6月のノルウェーフィヨルド散策旅は飛行機と宿の予約をキャンセル。 コロナウィルスが日本に入って来た時から、誰でも自由に飛び回れなくなった。

 それでも、GOTOトラベルなるものを利用して、近郊の温泉や山に行き、それはそれで楽しく、思い出を積み重ねて来た。 大雪で関越道が通行止めになった朝、トラネコはカニを食べに新潟の宿に行かなければならなかったが、上信越道の妙高経由でなんとか辿り着いた。 翌日も関越道の通行止めが続き大きなニュースになっていたが、国道17号を使い、 三国峠を越えて水上のペンションに入ったトラネコは、水上より先の藤原方面が大雪で孤立状態になっているときに、 雪に埋もれた露天風呂を満喫させてもらった。

 やがて、最大の危機がネコに訪れた。突然の病魔に襲われ、入院から、わずか2ヶ月と2週間で、ネコはこの世を去った。 原因はサイパンで犬にかまれたときの狂犬病ではなく、すい臓がんだった。 トラネコは、末期のすい臓がん患者を現代の医療では救えないことを知り、自然に委ねることにした。 治療ではなく緩和ケアの道である。
ネコが退院して元気なうちに、群馬の山を3ヵ所巡り、好きなソフトクリームを食べ、最後は自宅のベッドで亡くなった。 苦しまずに、眠るような、穏やかな死だった。

   さて、この世に残った小生は、何をするか。手始めにネコの骨を粉にして、一部を赤城山に散骨した。自然に返るための散骨、それが女房の望みだった。 そして、トラは単独行の山歩きを再開し、今シーズンはできなかった仙人温泉小屋の手伝いもするつもりだ。 小屋の主人は、入院中の世話や自宅での介護や看取りなどの事情を話すと、スタッフが必要な状況にもかかわらず、女房に付き添うことを承諾してくれた。 とてもありがたい配慮だった。

 フーテンの寅は、旅に出て、マドンナと恋に落ちては振られた。 トラも強引に独身に戻ってしまったからには、寅次郎のように、気の向くままに旅を続けようと思う。

人生一寸先は闇であり、筋書きのないドラマであり、とんでもない暇つぶしの連続である。 そんな一生を振り返るとき、積み重ねた思い出だけが生きた証になると考えている。 トラネコ危機一髪の経験は、お互いの貴重な宝物になったんだなと確信している。


付録


ネコの手記より     2021年6月22日(火)  黄疸で入院中


 今の気持ちを少し伝えますね。

 死を宣告された病気なのに、私の心は穏やかなのです。 何故なんだろう?と考えると、子育て中は無我夢中で,子供優先の生活の合間に自分の趣味をしていました。 バレー、バドミントンなど。 トラが単身赴任だったので、夜バレーに出掛ける時はユ*子ばあちゃんが優*子と大*の面倒をみるのに留守番に来てくれていました。感謝です。

 子育てが終わってからは、その他に卓球を始め、仕事も、元気な私が誰かの役に立てないかなあと ホームヘルパー二級の資格を取り、一日1〜3時間、週5日で続けていたのですが、単身赴任を終えたトラとの時間を有意義に使いたいと思って、 8年間のヘルパー生活を終了しました。

 いろんな事を家族に相談はするものの、最終的には自分自身の事なので、自分が納得できるように自分で決める。 それが一番良いと私達家族は考えています。出来る限りの応援も。

 ここ5年位の間、いろんな事を楽しみました。
 テニス復活、スキー、登山、旅行、フルマラソンなど。
特にフルマラソンなんて考えても見なかった事が経験できたのも、トラが上手に引っ張りこんでくれたおかげです。感謝。 スキーも登山もトラに、一から教えてもらって始めたものです。楽しい経験ができました。

 ボーと生きていないで、もっと世の中をみたほうが良いと言ってくれ、いろいろ本を貸してくれた人、 子ども食堂のボランティアで関わった人、など、親戚や家族との関わり以外にもさまざまな人達と繋がって生活してきたんだなあ・・・と。

 たぶん、心が穏やかなのは、誰かに決められた事をやるのではなく、 誰かに勧められたとしても、自分で判断して自分で決めて実行する・・・このスタンスによる充実感なのかなあ。

 もう一つ、・・・、当たり前すぎて忘れていました。 子供達が大人になり、自分の力で生きて行ける事が確認できている事。

 優*子は、順調にスーパーマーケットで働き、自分の好きな事を前向きにやり、ネコの代わりをしっかりやろうと頑張ってくれている。成長したなぁ。

 大*は、自分の選んだパートナーと子供達という家族ができたので心配ない。相手の事を思いやりながら生活していってくれれば・・と、願うのみ。

2021年8月31日(火) 午前7時40分 永眠


仙人峠にて裏劔を望む(2014年8月)





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